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バタフライナイフ

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2024/04/30 (Tue)

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2013/09/28 (Sat)

2013-09-12 10:20

愛犬が 息絶えた。
今月17歳になったばかり。突然の死だった。

前の日まで すこぶる元気で
ごはんもぺろりとたいらげて お散歩にもでかけていた。

朝8時すこしまえに てんかんのような発作で 倒れたのだった。
そのような発作は ひさかたぶりだったのだけれど
かつて経験していたような 数分でおさまる軽いものではなく
いつまでも普通の状態に戻らない ながく重たい発作だった。

もがき苦しんでいる犬を前にして 母が 『動画を撮ったら?』 と云ったのは
やがておさまったら獣医さんに連れていって 診ていただくこころづもりだったから。
まさか そのまま死んでしまうなんて おもってもいなかった。母も 無論わたしも。
どのみち カメラを向けることは わたしには出来なかったけれど。

てんかんを起こしている犬は 意識をうしなっているので
痛いとか苦しいとか 感じていないものらしい。
どこの犬に訊いたものだか知らないけれど それが本当なら少しは救われる。
まわりの人間に出来ることは ほとんど無かった。
ぶつかりそうなものをどけて 見守ることくらいしか。

ながいこと足をばたばたさせていたけれど だんだんにうごかなくなってしまった。
どんどんしずかになって 呼吸も止まってしまったようだった。
母が 心臓マッサージを試みたけれど だめだった。
倒れてから2時間以上たたかっていたけれど そのまま意識が戻ることなく 旅立ってしまった。

ちょうどこの日は 休日だった。
家族で囲んで 体を撫ぜてやりながら おわかれすることができたのは 幸いなことだった。

まえの2匹もお世話になった ペット霊園宇都宮 というところで 火葬してもらった。
ほかの2匹の骨壷は 菊の花の地模様の しろい袋にいれてもらったのだったが
今回は 桜の花の地模様の うすいピンクいろの袋。
あの子らしくて かわいらしい。

我が子のようにおもって可愛がっていた3匹の犬たちを すべてうしなってしまった。
18年ぶりに 犬のいないお部屋は とてもしずか。
犬とともに暮らした この18年間は かけがえのない宝物のような日々だったなあ
と しみじみ思い返している。

uran
††
at the crossing
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2012/11/24 (Sat)

2012-11-24 05:45

愛犬が 息絶えた。
17歳5ヶ月 大往生だった。

もともと外飼いの犬だったけれど 半年ほど前から おうちのなかに入れていた。
脚の腫瘍を じぶんで齧ってしまって 血だらけになってしまうのだった。
エリザベスカラーのようなものをつけたり 靴下の先っちょを切ったものを履かせてみたり
さまざまに知恵を絞ってガードするのだけれど たびたび血だらけになっていた。
齧ったら 腫瘍が取れるとおもっているようすだった。

次第に 腫瘍は ひらたくおおきくなって 増えていった。
脚の外側だけにあったものが 内側にも ひとつふたつ。
脚以外の場所にも ちいさなできものが ちらほら。 

それでも 11月15日までは よく食べよく眠り
もう1匹の犬を追いかけまわしてあそんだり 元気に過ごしていた。

11月15日 てんかんみたいな発作。
ひとつきにいちどくらいの頻度で 発作を起こしていて
いままでは わりあいすぐに けろり回復していたのだったけれど
今回は うまいこと回復せずに 徐々に食欲が落ちていった。
それまで かりかりしたフードを かりかり食べていたのに
かりかりなんて しらんぷり。
缶詰とか おやつとか おいしいところだけ すこし。
そのうち 缶詰も おやつも 食べなくなって
クリームチーズとか 牛肉とか スペシャルてづくりごはんとか
あれこれいろいろ試して たちまちそれらも一切拒否するようになって・・・

2年前に愛犬を亡くしたとき 強制給餌が いっとう辛かった。
流動食をこしらえて シリンジで口に流し込みながら ぽろぽろ涙が零れた。
強制給餌は もう したくなかった。
たべることを拒否する犬に 無理矢理たべさせるということは ほんとうに辛い。
でも スポーツドリンクだけは どうにか与えてみた。
シリンジで すこしずつ 口のなかへ。
あんまり口を動かしてくれなくて 口の端から零れて やっぱり哀しかった。
死にちかづいた犬は たべることも 飲むことも やめてしまう。

さいごの夜は 痛がって 掠れた声で鳴いていた。
日付が11月24日に変わった深夜 あんまり痛がって鳴くので
撫ぜてやろうとおもって手を伸ばしたら その手を がぶり齧られた。
歯をくいしばって なかなか離してくれなかった。
わたしの手には 犬歯のかたちの穴があいて じわり血がでてきた。
傍にあった毛布やバスタオルにも齧りついていたから よほど痛かったんだろう。
すぐさま消毒して 絆創膏貼って じんわりした痛みをおぼえつつ ついうとうと。
ふと目覚めた早朝 ただならぬ気配をかんじる。
犬の息遣いのようすから いよいよ最期のときなのだと ぴんときた。
抱きかかえ 撫ぜてやりながら なまえを呼んだ。

わたしの腕のなかで しずかに 息をひきとった。
さいごの瞬間に ふしぎなことにぱちり目が覚めて まにあってよかった。

2年前にもお世話になった ペット霊園宇都宮 というところで 火葬してもらった。
お骨をひろうとき 骨の説明をしてくださるのだったが
わたしを齧った犬歯は きれいなかたちでのこっていた。
骨壷の うえのほうに 納めた。

2年前に愛犬を亡くしたとき 獣医さんに通いつめて
投薬やら 注射やら 強制排尿やら 皮下補液やら
さまざまなことを試みて さいごの瞬間は 獣医さんの待合室で迎えたのだった。

今回は あんまり獣医さんのお世話にはならず
なるたけ自然にまかせて さいごの瞬間は おうちで迎えることができたのだけれど
痛い思いをさせてしまって かわいそうだった。

どちらがよかったとかわるかったというはなしではないのだけれど
犬を看取るということは どんなに最善とおもわれる手を尽くしたとしても
『ああすればよかった』『こうすればよかった』というきもちが
うかんできてしまうものなのだなあと しみじみ。

17歳5ヶ月で息絶えた犬は むかし狂犬病予防接種のとき
こわがって暴れてとびあがって わたしの頬を齧ったことがあった。

わたしの手に齧りついたのは じつにあの子らしい最期だった。

(2012-12-02 記)

atom
††

2011/03/11 (Fri)

2011-03-11 14:46

震度6強の地震の揺れは かつて体験したことの無いものだった。

そのとき わたしは お店で働いていた。
築31年 ふるい木造家屋の 1階部分が 店舗になっている。
この日さいごのお客様の 調理中で
あれやこれや 準備しているときだった。
揺れが やってきた。
はじまりから がたん!と おおきめな揺れで
調理中の父は すぐに 火を止めた。
お客様に 『おおきいですね』 などと 話しかけながら
わたしは調理場をでて お客様のちかくに 歩み寄った。
父も 調理場をでて 客席のほうへ。
揺れは だんだん 強まった。
『そとにでたほうがいいかしら』 などと声にだしてみたが
もう お店のガラス戸のところまで 歩いていかれそうにない。
ガラス戸にちかづくのは とても危険におもわれた。
がたんがたん鳴っていて 今にも割れてしまいそう。
揺れは ますます 強まった。
家が倒壊するんじゃないか とおもうような激しさになり
生き埋め という言葉が 頭を掠めた。
調理場では 上のほうに重ねてあった 土鍋やどんぶりなどのうつわが
つぎつぎに落ちて 大きな音を立てはじめた。
急須や 飾ってあった人形なども。
それでも まだまだ 揺れ止まない。
地面が 家全体が 上下左右 あらゆる方向に 突き動かされた。
ながい ながい ながい 揺れ。
とちゅう 電気が消えかかって 景色が歪んで 死ぬかとおもった。
わたしは立っていられなくて その場に座り込んだ。
38年生きてきて いっとう おそろしい時間。
ようやっと 揺れがおさまったとき
おもったことは 『生きてた!』 だった。

あとで知ったことには みっつの地震が 続けてやってきたのだという。
ふつうの地震だったら 揺れ止むだろう頃に
揺れ止むどころか さらに激しさを増したのは そういうわけだったか。

激しい揺れは それはそれはおそろしかったけれども
それよりも もっとおそろしかったのは 音だった。
あれは なんの音だったろう。
地震のあいだ中 響きわたっていた
地面が鳴る音 家ぜんたいが鳴る音 ガラス戸が鳴る音
うつわが鳴る音 こわれる音。
あの音のおそろしさを わたしはずっと忘れられないだろう。

調理場も店内も たいへんな様子だったから
お客様は ごはんを召しあがれないまま お帰りになった。
『気をつけて』 と見送ってから おそるおそる外に出てみると
家の前の道路に なにやら 転がっている。
うちの屋根から落ちてきた いくつもの おうちのかけら。
瓦の裏側の セメントの部分だろうか。

2階が住居になっているので 様子を見に行った。
たくさんある本やCDは 存外無事で でも幾つかは 床に落ちていた。
ボトルアクアリウムの水が すこし零れていた。
フローリングの床に しろいかけらが たくさん落ちていて
よく見たら 漆喰の壁が あちこち剥がれているのだった。
以前から 外壁にも内壁にも ずいぶんひびが入っていたのだけれど
そのひびが さらに おおきく ながくなってしまった。
揺れの割には お部屋のなかの被害は少なくて ひとあんしん。

すぐさま おおきめの余震が 幾度も幾度もあって
愛犬を抱っこして 家の外に たびたび避難した。

近所では いくつかのおうちで 瓦が落ちていた。
大谷石の塀も 剥がれたり 傾いたり。
我が家が 建ちつづけていることが 奇跡みたいにおもえる。
再び あんな地震がやってきたら 今度は倒壊してしまうかも。

地震のあと すぐにテレビをつけて
震度6強だったと知って 驚愕した。
そしてそののち この街の被害は それほど大したことなくて
もっとおそろしい 甚大な被害を受けたところがあると知って 戦慄したのだった。
街ごと 人も家も車もぜんぶ 流されてしまうなんてことが 現実に起きたなんて。 
そして 原発の事故。なんておそろしいことが 起きてしまったんだろう。

余震は 夜中じゅう続いて しかもおおきめで
原発のことも気になって気になって 一睡も出来なかった。

地震の日は 写真を撮ることなど 思いつかなかった。
写真は 数日後 撮ったもの。
おうちのかけらや お部屋のひび割れたようす。

(2011-03-18 記)

20110311
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2010/06/20 (Sun)

おわかれ

犬は 火葬した。

都合により 翌々日まで 自宅に安置した。
あたまとおなかを中心に ドライアイスや氷を駆使して 冷やしつづけた。
亡くなった場所が 獣医さんだったので
死の直後に 適切な処置をしていただけたのは 幸いだった。
死の直前 なにも食べられなくて おなかがからっぽだったのも 幸いだった。
おかげで いい状態を 保てたとおもう。

犬を看取るのは はじめてのことだった。
死んだ犬のつめたさを知り 死後硬直の硬さを知り
一日くらい経つと 硬直が解かれるのを 知った。
枕飾りをこしらえたり お花を飾ったり。

獣医さんの待合室で その時が訪れたとき
わたしは まさか死ぬとは おもっていなかったのだ。
ちょっと様子がおかしいだけだと おもっていた。
それと気づかぬうちに 逝ってしまった。
気づいたときには 死んじゃってた。
あの時 もっと撫ぜてあげれば よかった。

二晩 遺体のとなりに 眠った。
ときおり話しかけたり つめたい頬にチュウをしたり
耳のうしろの ふわふわやわらかいところを 撫ぜたりした。

いもうとたちが 電器屋さんで ダンボールを貰ってきてくれた。
電子レンジが入っていた おおきな箱。
そのままでは 高さがありすぎたので 半分の高さに切った。
りっぱな 棺が 出来上がった。
納棺の儀を 執りおこなった。

ペット霊園宇都宮 というところで 火葬してもらった。
お経が流れるなか 棺のなかにお花を納めて お焼香した。
お骨をひろうときには 骨の説明も してくださった。
サービスで 日曜日の地方新聞に おくやみが載った。
人間並みに 丁寧に対応してくださった。
満足のいく いいおわかれが 出来た。

遺骨は 暫く お部屋に置いておくつもり。
あと2匹 老犬を飼っているので
ゆくゆくは 骨壷を みっつ 並べてやろうと たくらんでいる。

Remainsnews paper 2010-06-20

2010/06/14 (Mon)

2010-06-14 18:30

愛犬が 息絶えた。
去年 危篤になった犬とは 別の犬。
(去年危篤になった犬は 今ではぴんぴんしている)

15歳 闘病中の死だった。

3月のおわりに 病を得て
週に1度くらいのペースで通院して お薬をいただいていた。
膀胱炎のような症状が 続いていた。
おなかに 腫瘍が いくつも出来ていた。

病状が進んだのは 6月に入ってからのこと。
6月4日 おなかの腫瘍が 急に あかく腫れあがった。
尿が まったく出なくなって 獣医さんへ。
尿道にも腫瘍があるようすで カテーテルが 通らなかった。
おなかに 直接針を刺して 尿を抜いてもらった。
その日から 連日 通院することとなった。

腫瘍の炎症を鎮めるおくすりを 毎日 注射していただいた。
腫瘍の腫れが みるみる引いて 尿が出るようになった。
寝ているときにも 垂れ流すほど出るようになって
たいへん喜ばしかったのだったが だんだん
食欲が無くなり なんにも食べなくなった。
食べない犬は どんどん 弱っていくのだった。
じぶんで立ち上がれなくなり 立たせてあげても倒れるようになり
後ろ足が利かなくなり つづいて前足にも力が入らなくなった。
寝たきりで うごけなくなった。
ごはんも お水も シリンジで与えることとなった。
処方していただいた流動食を 強制給餌。
まもなく 流動食さえ 受けつけなくなった。
はじめのうち 舌をうごかして おいしそうに飲み込んでくれたのだったが
流し込んでも まるで 口をうごかしてくれなくなった。
みじかい看病生活を振り返ってみると この時が いっとう辛かった。 
シリンジで 無理矢理口に流し込みながら ぽろぽろ 涙が零れた。
腎不全の疑いが強まり お水だけあげて食べさせなくて良くなったときには
ずいぶん 気持ちが楽になった。
寝たきりになってしまっても 毎日の通院は つづいた。
注射をしていただくと すこし元気になるようにも思えた。
胃薬とか 皮下補液とか 呼吸が楽になるおくすりとか
休診の日さえも とくべつに診てくださって
さまざまな治療をしていただいて ありがたいことだった。

6月14日 亡くなった日
その日の朝は 前日よりも 元気があるようにみえた。
ずいぶん落ち着いたようすで ときどき あまえた声で吠えた。
声をあげて吠えるのは ひさかたぶりのことだった。
お水をシリンジで飲ませたり からだの向きを変えてあげたりすると
おとなしくなるのだった。
今思えば 犬は死を予感していて 不安で吠えていたのかもしれない。
ひるまのあいだ とてもおとなしく おりこうさんに 横たわっていた。
夕方 いつもの時間に 獣医さんへ。
いつものように 抱っこして 連れて行った。
獣医さんの待合室で 診察の順番を 待っているときだった。
なんだか 様子が おかしくなった。
幾度か 口をぱくぱく動かすのだが 声は出ないのだった。
ぜんぶの足を ちからづよく踏ん張って そして 突然 だらんとした。
『あれれ?』 とおもっていたら わたしの足元が あたたかく濡れた。
からだのちからが ぐにゃりと抜けて 最期の排尿をしたのだった。
診察の順番が来て 名前を呼ばれたけれど 立ち上がることが出来なかった。

わたしの腕のなかで しずかに 息をひきとった。
しずかな しずかな 最期だった。

とちゅう 『もう通院はやめて自然にまかせて自宅で看取ろうか』 と
よわい気持ちになったことも あったのだった。
抗生物質を注射して 無理矢理給餌して 生かしつづけることは
犬にとってしあわせなことなのか 疑問におもってしまったことも あったのだった。
挫けずに さいごまで通院して 出来る限りのことをしてあげられて よかった。
あかく腫れあがっていた腫瘍も 亡くなるときには
すっかり腫れが引いて きれいな肌の色になり ちいさくなっていた。
痛々しい姿で旅立たせずに済んで 苦しまずに済んで よかったとおもう。
さいごに 獣医さんたちにも撫ぜてもらえて しあわせな犬だった。

きらきらひかる白い毛の うつくしい犬だった。

Laughing

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